【胎動】
大学卒業後10年目のその日は、釣り番組製作会社の社長室に呼び出されていた。
理由は私の社会不適合な態度。頭を金髪にし、眉を剃り、血糊をつけた状態で編集機の椅子に半日寝ていたためである。同級生の映画の撮影で、八王子のライブハウスで完徹した直後の朝だ。
社長「会社をなんだと思っている。周りにそんな奴一人もいないだろ」
語気が荒い。だが私は間髪入れず、切り返す。
配島「釣りの映画を撮らせてくれるなら、まだ残ってやる」
社長「無理だ。頭おかしいのか?」
配島「じゃ、辞めるわ」
社長「わかった、一旦待て、ブロメに聞いてやるわ」
ブロメとは、ここブロードメディア株式会社のことである。なんと私の所属していた釣り番組の親会社が、当時、映画配給会社だったのだ。
社長「・・・やめとけ、斜陽の産業だ」
配島「お世話になりました」
その後、会社は辞めた。もちろん自己都合。退職金は30万も満たなかった。勤続10年就職氷河期に拾ってもらった釣り番組のディレクターはこんなものかと、素直に落ち込んだ。
途方に暮れるも、体の芯が熱くなるような自由のマグマが、言いようのない自信と無計画の未来予想に祝祭をもたらしていた。これが、私のセカンドキャリア。
-10年が経ち、期が熟した。
魚釣りの映画など「釣りバカ日誌」か「リバーランズスルーイット」しか知られていない。前者は、会社員の日常を釣り人の滑稽さで魅せる喜劇、後者はアメリカの戦争に対するカウンターカルチャーとしての釣りを通した兄弟の話である。本作「重ねる」はどちらでもない。
令和の時代に存在しているごく一般的な男女が、釣りを通して出会い、過ごす物語である。
劇中に描かれている、何かに向かっていく時の振り返らなさや、時間の使い方のわからなくなった人間が吐く言葉に大いに注目していただきたい。
これが私の考える「人間の面白さ」である。今後も一貫してこのテーマで撮っていく。
映画の中の人物が理解を超えた行動であったとしても、整地されたこの異常な日常の繰り返しの方が、よほど怖く思えるのは私だけであろうか。目にみえる不平等な事象、不意に告げられる曲がった事実とそれへの葛藤、逃げたくなる現実、わからなくなった呼吸…
そういった者の、生き方の答えを探したのが、この映画である。
【シナリオ・ハンティング】
リサーチを始めたのが会社を辞めた2年後と記憶している。私は自分の考えを脚本にまとめるべく全国を旅していた。北は青森、南は鹿児島まで、その中でいくつかのテーマがあった。自分が描く作品の柱となるロケーションのことだ。
まず、赤い橋が欲しかった。赤く、人が落ちても死なない橋を探していた。物語のクライマックスに使いたい橋は、赤くないといけない。これは今思えば、見切り発車の思い込みである。ビジュアルが欲しかった。“赤く、なんかやばい橋”。
当時の記録を確認すると、秋田、埼玉にあった。そこでやりたかったアイデアは、主人公の女性が橋の上から吊らされていて、その様は“蜘蛛の巣にかかる蝶のよう“というものだった。ビジュアルを強烈に思いつき、筋は後からどうにでもなると考え、ひたすら女性を吊るすのに最適な赤い橋を探し、一方で吊るし方を学んでいた。吊るし方、そう、縄で人を縛る緊縛のやり方である。世界的にも有名なロープアーティストで縄師の方への取材も行い、吊るすこと、縛ることの意味も習い、さらに研究した。ではなぜ、そんなことを考えたか?
主人公の女性が異形に心を奪われ、魔物に憑かれてしまう、抵抗するも捕らわれる、それが自ら選んだ行動の果てならば、観客は惹かれる、そのような仮説が私の頭を支配していた。そんな旅を頻繁に重ねていたが、理想とは裏腹に、現実世界で信じられないことが起こった。新型コロナウイルスの蔓延、世界的パンデミックだ。
シナハン開始から3年後に起きたこの事件は、私のアイデアの実現にストップをかけた。
とある田舎では居酒屋の入り口に「県外の方入店禁止」という張り紙が貼られていた。高齢者の女将さんが一人で切り盛りする私の大好きな居酒屋のひとつだった。かなり、私の想定が狂ったのは言うまでもない。もし、使いたいロケーションがあっても地元の皆さまの許諾がなければ進まない。
何日も考えた挙句、映画制作を一旦、胸の奥にしまった。ただ、消したくないアイデアの断片とシナリオを完遂させる粘っこさが私にはあった。
「だったら誰にも会わず、野宿をしながら自炊し、魚釣りともう一度向き合う」
まるで、映画の中の一徹くんのように。
そういう想いで動いた新しい旅先、そこは岐阜県であった。
【ひとり旅で見つけたこと】
走行距離は18万キロの赤いプリウスは、抜群によく走った。民主党が政権を取って高速道路がかなり安くなったあの頃、会社員時代の仲間と笑いながら九州へよく釣りに出掛けた。片道1,000キロの旅。あの移動の快楽が私の“釣り旅”を加速させた。だが、今は独り。目的は変わった。
“私の中にある釣り”との対話。他人に会う旅ではなく、自分と向き合い映画のタネを探す旅は、岐阜に決まった。選んだ理由は、雑誌やネットで調べる限り、川釣りの天国と謳われていた為だ。本州のど真ん中にそんな桃源郷があるのか?そう疑問を持ちながら、進んだ。
道中、ひとつ気づいたことがある。“遠い”のである、とにかく。
これは映画に使える。都会からしっかり遠い。主人公が移動するのに最適解である。都会の暮らしと田舎の暮らしの対比は、元々のプロットに組み込まれている。遠さは、心変わりと物理的な孤立に必要な事柄である。論より証拠、どうやら動けば映画のタネが落ちていることが分かった。これが後に、シナリオに生きてくるのであった。
【岐阜の自然を撮る理由】
私が目指した先は、岐阜県郡上市和良町。その中心に流れる川、和良川には、とにかく美味しい鮎がいるそうだ。これも映画のタネになると予想し、さいたま市から向かった。
中津川インターを下り、エメラルドグリーンの絶景、付知川、数々の釣り名人を育てた白川を抜け、アマゴが抜群に釣れるという竹原川と支流の乗政川に横恋慕しそうになりながらもスルー。国道41号を左折し、目に飛び込んできた川が飛騨川本流。ああ、ここが化け物みたいな大型の渓流魚を育むところか。路肩に停め車を降り、川を見る。太い・・・そして、怖い。
これが岐阜の正体なのか?正直、ダイナミックすぎる景観に動揺していた。こんな川、他にない。水量が多く、さらに深さがあり、岩がイキリ立っている。地名を調べると中山七里と書いてあった。余談だが、当時は人の名前かと思った。自然を相手に人名を与えている、村の方々は擬人化するほど神々しい何かを知っているんだろうなと、勝手に思っていた。
深呼吸すれば空気が異常に濃いことに気が付く。耳を澄ませば、早朝のケモノの挨拶が聞こえるし、多分ここには本当に魔物がいると確信した。「岐阜、オレ、全然知らなかった」と、素直に驚いた。それと同時に、ここなら私の想像を補完するシナリオが書けるかもしれない、なんかわからないけど強さを感じた。さらに、私が考える作品には観客が観たことの無い自然物が必要だった。人工物でない、いにしえを感じる地球が欲しかった。人の性格を変えてしまうくらいの大きな自然が。−揃った。岐阜だな、と。
【いい塩梅の田舎、和良】
巷の噂で、圧倒的なうまい鮎が釣れる川、和良川。主人公の目的地であって、人が集まるのには最適な理由であった。西は郡上八幡、東は下呂市金山町、四方を山に囲まれたその土地は標高400メートルほど。下流の方須エリア、支流の土京川合流付近、町の中心地の橋から橋、最上流部の鹿倉川まで、ロケーションくまなく見て回った。流れが優しい川、町も川に近い。全てのロケーションが、私の映画の構想に理想的であった。
大前提として、私自身、魚釣りが大好きだ。主人公を描く際の衝動をシナリオに落とす必要がある。感情を言葉に変える作業である。その為にも、私は釣りを客観視する必要があった。なんで、釣るのか?何が釣りに向かわせるのか?主人公の心はどこに向いていくのか?それを考えて釣りをしていた。釣行を繰り返す内に、落ち着いて釣りを考えることができてきた。
初めて、和良川で釣りをした時のことを忘れない。鹿倉川と鬼谷川の合流で掛けた鮎が 最初の一匹。強烈にスイカの香りがした。おとり屋の大野さんに聞いて入ったその場所で掛かった鮎は、純朴な美人というような印象だった。
「間違いない、ここなら主人公が釣りをする魅力がある。都会を忘れて没頭できる」
筆が進んだ。
【和良町の魅力とロケーションのリアリティ】
コロナ禍、同じように野宿をしながら釣りに興じていた方々は、道の駅和良に集まっていた。しかも、利き鮎グランプリ4度大賞になった和良鮎は釣った後に買取りしてくれる。これが創作行為の足しにもなった。油代と高速代、なんなら、食費も鮎を売れば賄えた。幸運なことに私には鮎がよく釣れた。その頃、大宮から赤いプリウスに乗ったゴツい奴がよく釣ってくると少しだけ目立ち、色々な釣り人が話しかけてきてくれた。野宿の恩恵を受け長期滞在に明け暮れた私は、徐々に町の方々と接触するようになった。その中の一人が、和良おこし協議会の加藤真司さんである。
加藤さんとは、色々な話をした。町のこと、移住者のこと、仕事のこと。その時期は、コロナ禍であった。だが、加藤さんには、関係なかった。彼の放った何気ない一言に私は感動した。
加藤「違和感しかない。今のこの状況が」
強い言葉であった。間違いなくここに住んでいないと出てこない眼差し。今の世の中を見つめる解像度が、その後、脚本にはかなり投入された。カトウシンスケ演じる、拓也が放つ言葉に多大に影響していく。
その後も加藤さんはいつも笑顔で接してくれて、程なくして私は映画の構想を告げた。
加藤「いいですね、やりましょう」
信じられなかった。ただ、私の懸念は世の中の目であった。けど、加藤さんの続く言葉でその不安も吹っ飛んだ。
加藤「あれは、一部の人間が騒いでいるだけ、ここは大丈夫です。」
私は耳を疑った。同じ田舎でも、県外の方お断りもあれば、受け入れを喜んでくれる方もいたのである。行ってみないとわからない。自分の耳目で、呼吸して、挨拶して、そうやってタネはできるのだと確信した。この出会いが、映画「重ねる」の、いちばん大きな幹になり、後の枝葉につながった。
【あゆみと一徹の人物設定】
私の好きな映画の脚本技法は全て、主人公を浮き彫りにしていく方法が直接表現されない作品である。ここでいう直接表現とは、私は〇〇である、あなたは〇〇であるを限定しない方法のことである。その点で、今作は主人公以外の会話や仕草で性格をなるべく浮き彫りにしていこうと考えた。さらに、劇中の主人公2人の内面の吐露は、“ずらす”と決めた。まずはあゆみの場合、如実にわかるのが焚き火のシーンだ。旅に来た女、あゆみは酒も入り、一徹に告白する。
「辛いと死にたくなりません?」が、それだ。一方の一徹はちゃんと答えない。
「全部燃やしちまえばいいんですよ」と、言い放ち、経済活動として象徴的な持ち物である財布を燃やす。あゆみの内面の吐露に対してはぐらかしている。ここでの表現は、観客に一徹の心を想像していただくために狙った。また、これが恋愛映画の基本となる、すれ違いの表現である。
告白に対し、“すれ違わせる”表現は他にもある。恋愛要素以外でも描いた。親友、拓也が一徹の様子が普通じゃないと感じ、言い放つひとこと
「嘘は嘘で重ねてまう、それが怪物の正体だ」養鱒場で言うこの忠告に対して、一徹は背を向けて逸らす。これも言葉の掛け合いも積極的にずらしている。
この一連の表現は、クライマックスシーンで回収する。一徹があゆみへ放つ
「バカなことするな」である。
自分の内面をなかなか吐露しない一徹が、生き方に悩んでいることは、周りの人物へは伝わる。だが、確信的な何らかの原因や、こうありたいという理想は語らない。この口下手の青年へ向け、人工呼吸の後にあゆみから放ったキスは、怒りにも似た心理であったはずだ。なんなら殴っていてもおかしくない。孤立した果てに、寂しさの境地へ辿り着いてしまった、あゆみの悲恋を映す、最大限の方法は、一徹に上手くしゃべらせないことだった。
このように登場人物の会話のずらしを今作では多用した。それは、観た方々へ、他人の心の深淵を想像していただく効果を狙っている。うまくいっていればいいのだが…
そもそも、映像ディレクターとして都会で生きてきた一徹は、雄弁だった。ただ、その言葉の軽薄さゆえに失敗を重ねる。自分に自信が無くなった彼は、移動して、得意なことをやってみようと思いつく。それが今作に於いての釣りである。釣りは、無言でできる。かつ、自信が無くなった一徹には一番楽な行為である。得意なことに没頭し都会で放っていた飾った言葉を使う必要もない。まさにそれは、自分の獲得してきた一番の武器としての“言葉”の価値が揺らぎ、そこから逃げていく旅なのである。
あゆみは違う。彼女は田舎に行くに連れ、言葉を獲得していく。都会にいる際の圧倒的な虚無感、呼吸すら困難な状態。作中の冒頭、扇風機への涙、過去の父との写真は彼女の孤独の限界を表している。遠くの風に当たりたい、気持ちがよかった過去のあの地へ旅に出る。
かくして能動的に旅に出たあゆみ。父親と幼少期に向かったであろう釣りが盛んな田舎では、その地の民の優しさに触れる。彼女は、その都度温かい言葉を獲得していく。徐々に回復していく心が、旅に出たあゆみの行動力の源になっている。地元の方の案内で見た圧倒的な蛍、食べたことのない鮎やアマゴの感動が彼女を楽にしていく。
だが、自然の豊かさに慣れていないあゆみは、開放感の中、突飛な行動をとってしまう。昆虫との戯れ、橋での放尿、滝での遊泳、男根に見える樹木への冒険は、獲得していく楽しさと同じくして起きる、あゆみの心情のアンバランスを表現するため描いた。
恐ろしい偏見かもしれないが「美しい女性が一人でいることは、山村の里ではそもそも異物に見えてしまう」この一般論としてのバイアスを、儚く危なっかしい存在としてのあゆみに委ねることで物語の中心に置いた。
これが、私なりに考えたファムファタルなのだ。
【終わりに】
須田さん、タモトさんには、現場でこの一連のことを伝えていなかった。だから、とても大変だったと思う。結果として、私の狙いの演出が記録されてはいるが、俳優部の皆さんは想像以上に大変な作業だったと思う。皆さんの技術と登場人物の心象に向き合っていただいた姿勢に最大限の賛辞を送りたい。